脱退
あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるのか オリオンの綱を解くことができるのか。
ヨブ記
プレアデス星団の和名は「すばる」である。一つの星にではなく、おうし座のなかの星団に付けられた名前が「すばる」であり、一つに集まること「統ばる」に由来しているという。個人差はあるようだが肉眼でも夜空に5つから7つの星が集まって輝いているのを確認できるそうだ。
脱退した渋谷すばる
最近「関ジャニ∞」の渋谷すばるが脱退するというニュースを見ながら、常識がなくて情けない話だが、正直なところよく知らずに8人からなるグループなのかと思っていたので、記者会見の席に6人しか確認できなかったことが少し気になった。肉眼では8名確認できないあたり、それこそ「すばる」みたいだなとネットで調べてみる。

やはり結成時は以下の8名だった。
・横山裕
・渋谷すばる
・村上信五
・丸山隆平
・安田章大
・錦戸亮
・大倉忠義
・内博貴
まず内博貴が10年以上前に脱退している。そして安田章大が自宅で転倒し背中を強打。入院中のため欠席となり、6名で記者会見に臨むことになったようだ。
なるほど内博貴が不祥事を起こしたことにより脱退を余儀なくされた「断絶」と比べると、今回渋谷すばるが自主的に願い出る形での脱退というのは意味合いがかなり違うわけで、少なからずグループとして新たな苦境に立たされているんだなと感じた。
ファンからも事務所からも惜しまれながらの渋谷すばるの脱退。同じメンバーでグループ活動を維持し続ける難しさについて改めて考えさせられる。人間というのはある面で無力なもので、ひとすじの髪の毛さえ白くも黒くもすることができない。もちろんプレアデスの鎖を結ぶこともオリオンの綱を解くことも自由にはならないのだ。

「8→1」
それでも関ジャニ∞は「グループメンバー間の絆が特別強いのだ」と紹介されていた。たとえば内博貴の脱退後も関ジャニ∞は「8人で1つ」であるというメッセージを込めた「8→1」で語られることがある。
これは大倉忠義が当時担当していたウェブ連載の結びに記した暗号のようなもので、事情をよく知るファンの間ではグループの在り方をあらわすキーワードにもなっているそうだ。
同じジャニーズ事務所ではSMAPが解散騒動で最後までメンバー間の足並みが揃わなかったことが印象的だった。グループということで言えばビートルズが不仲だったことは有名だが、どれだけ大きな成功をおさめても一緒にその成功を分かち合うべき人たちと、プライベートで信頼関係を損なっている状態というのはなんとも哀しい気がする。
そういう意味では関ジャニ∞の記者会見はメンバーがそれぞれの言葉で率直に思いを語りながらも、そこには培われてきた深い信頼が伝わってきた。ファンが今回の脱退を「受け入れられない」「信じられない」と語るのも頷ける。おそらくここまで結束を感じるグループは稀ではないだろうか。

何が「かすがい」となっているのか、もし内博貴が脱退する羽目になっていなかったら、この強い絆は育まれなかったのだろうか。その場にいられなくても、遠くに離れている誰かを「いない」と思わずに、意識をし配慮し続けた事がその秘訣のような気がしてならない。
ちなみに後日、丸山隆平が記者会見で普段かけないメガネをしていたことに触れられた際に、欠席した安田章大がいつもメガネをかけているので「会見に一緒に臨んでいる感じになるように」だったと、その理由を語っていた。
真偽のほどは分からないが、どちらにせよそう答えられるのは「にわか」ではできない芸当だ。その場にいられないメンバーとの関係にこだわり続ける姿勢が、彼らが貫いてきた「8→1」なのは間違いなさそうだ。

新年の「LINEのお年玉」CM
年が明けてすぐのLINEのCMに木村拓哉が起用されていた。RCサクセッションの「君が僕を知ってる」のサビを弾き語りするという内容になっていた。どういう経緯でその曲を選ぶことになったのか、歌いながらどんな気持ちになるのか、誰のことを思い浮かべるのか…なにかそういう事が気になって仕方なかった。
今までして来た悪い事だけで
僕が明日有名になっても
どうって事ないぜ まるで気にしない
君が僕を知ってるだれかが僕の邪魔をしても
きっと君はいい事をおもいつく
何でもない事で 僕を笑わせる
君が僕を知ってる何から何まで君がわかっていてくれる
RCサクセッション「君が僕を知ってる」
僕の事すべて わかっていてくれる
離れ離れになんかなれないさ
もしこれがSMAPのメンバーを意識して歌われたのであればどれだけいいだろうかと思う。人生において重大なテーマはおそらくお金でも成功でもない。「僕のことを知っている君」が居続けることではないだろうかと流れるCMを見ながら考えさせられた。
人間にはプレアデスの鎖を結ぶことはできないが、いつか目がすっかりぼやけてきて、メガネをかけてもダメだとしても、まわりの人の記憶からは失われていく「1人」をかけがえのない繋がりとして数え続けることに、なにか大きな意味があるのではないだろうか。
