映画「クラッシュ」
追突された衝撃で車が2回スピン。金属とガラスが軋む。助手席に座っていた男は頭を打ったのか妙な事をつぶやく。
「街中を歩けばよく人と肩がぶつかったりするよね。でもロスじゃ袖がすり合うこともない。人々はたいてい車の中にいるからね。けどさ。触れ合いたいんだな。クラッシュして何かを実感したいんだ」
ロサンゼルスのある一昼夜、接点のなかった人たちがビリヤードの名手に弾かれたかのように次々と連鎖的にぶつかり合っていく。そして咄嗟に自分の過失や落ち度を擦りつけるネタを相手に探して、自分とは違う人種のカテゴリーにそれを無理矢理に押しつける。
そこには小気味よい音などはない。痛ましく噴出された感情を鮮やかに残して、物語だけが玉突き事故みたいに軽やかに進行していく。やがて最後のクラッシュ。停止した車の中で男は、何かが胃の腑にコトンと落ちたかのように静かにそう呟くのだ。
映画「クラッシュ」袖振り合うも他生の縁
映画「クラッシュ」のメインテーマは人種問題になります。ある学者は「20世紀はカラーライン(肌の境界線)の時代である」と言ったそうですが、21世紀に入ってもアメリカ社会にいまだに残る人種間の相互不信の根深さが絶妙に描かれています。表立っては博愛に努めようとしても潜在的には人種の違いを異質なものとして受容できていなかったり、排除する事、包摂を受け入れることで自らのアイデンティティを再認識していたり。そんなジレンマに苦しむ人間たちの群像劇です。
但し、各々のクラッシュは場当たり的に起こるわけではありません。例えば「袖振り合うも他生の縁」という言葉があります。多少ではなく他生。ささやかな出会いでもそれは前世からの深い縁によるものだという捉え方です。もちろん前世からではないですが、相互をぶつかり合わせる何かが、世代を超えて、または世紀の区切りを超えて、雑然と持ち越されてしまっているようにも感じられます。もし人種間でクラッシュするような事があれば、それは異質な他者であるからということではなく、なにかの因縁があっての事だと考えることもできるような気がするわけです。
清算していくには、お互いその結び目を徹底して多角的に紐解く事を、まだ起こっていない衝突事故の現場検証を行うがごとくに、取り組む必要があるのかもしれません。
