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映画「グラン・トリノ」~差別意識について考える~

映画「グラン・トリノ」

「差別はいけないもの」という考えが一般的になり、差別のない世界を人々が目指すようになってから、どれくらいがたったのでしょうか。
それでも、いまだに差別は根強く残っています。

差別意識は多くの人が心の中に抱いているものです。
そんな差別意識を強烈に、そして根強く、心に抱いているのが映画「グラン・トリノ」の主人公です。

なぜ主人公は、それほどまでに強い差別意識を持つようになったのでしょうか。
また、差別意識は対人関係にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
映画の紹介と共に、考えていきましょう。

映画「グラン・トリノ」の作品概要

映画「グラン・トリノ」は、2008年に公開されたアメリカの映画作品です。
監督・主演共に名優クリント・イーストウッドが務めており、この作品を機に、イーストウッドは監督業に専念することになりました。

イーストウッドが演じるのは、頑固で口の悪い、いわゆる「付き合いたくないタイプ」の偏屈爺でありながら、深く強い部分を感じさせられる主人公・コワルスキー。
それはイーストウッドの適任であり、演技からは渋みと凄みを感じることができます。

映画「グラン・トリノ」のあらすじ

コワルスキーは愛する妻の葬式で、参列者や孫娘の服装を見て眉をしかめていました。
それは、彼らの服装がコワルスキーの常識にとってはありえないものであったからです。
コワルスキー自身もまた、他の家族に疎まれていました。

コワルスキーは、自身がさまざまなものに対し嫌悪感を隠しません。
軽薄な服装に言動、外国製の車に乗ること。
そして何より、アジア人に対する差別意識。

そんな彼が愛するのは、今は亡き妻と愛犬、そして愛車であるグラン・トリノ。
物語はコワルスキー宅の車庫に、隣家のモン族の少年であるタオがグラン・トリノを盗みに入ったことから始まります。

コミュニケーションを妨げるものとは?

コミュニケーションは相手の人となりや考え方を知るために必要なものであり、人間としての生活に欠かせないものでもあります。
円滑なコミュニケーションを取ることさえできれば、争いごとの多くは避けられることでしょう。

しかし人間の心には、コミュニケーションを妨げる類のものも存在しています。
それが、肌や目の色、住む国や使う言葉、それぞれの属性などに向けられる負の感情である「差別意識」です。

多かれ少なかれ、人間とは差別意識を抱きがちな生き物でしょう。
自分の考え方が確立しており、その考え方から外れる他人には、厳しい目を向けてしまうことが多いからです。

本来、コミュニケーションはこうした考え方の違いを埋めるもののはず。
しかし、差別意識が強ければ強いほど、自分の「良し」としたラインから大きく外れた人との対話を拒絶してしまう傾向があります。

今作「グラン・トリノ」の主人公・コワルスキーは、まさに「差別意識」が強いタイプの人物です。
ありとあらゆるものに対する嫌悪感を示し、差別意識を隠そうともしません。

コワルスキーはアジア人であるモン族を「イエロー」や「米つきバッタ」と呼び、自宅の敷地に入られることを極端に嫌います。
また、黒人を「ブラック」と呼び、同胞であるはずの白人に罵り言葉を向けることも厭いません。
それは、自分の息子や孫娘に対しても同様なのです。

偏屈で頭が固く、容易に人を近づけさせない。
それがコワルスキーなのです。

コワルスキーはその性格から、人とのコミュニケーションを苦手としています。
むしろ、コミュニケーションそのものを避けているといっても良いでしょう。
彼が親しく付き合うのは、数名の酒飲み仲間と、足しげく通う理容院の店主だけ。
最愛の妻が頼りにしていた神父ですら、突き放してしまいます。

しかし、そんなコワルスキーにもまた、得意とするコミュニケーション方法が存在しています。
それは、一般的に悪口だと捉えられ避けられるような言葉を用いること。
これは、理容院の店主との会話で顕著ですが、コワルスキーの友人となるタオ少年との会話でも発揮されています。

相手のことを良く知らない状態での悪口は、ただの侮蔑でしょう。
しかし、相手のことを良く思い、親しみを込めた悪口であればコミュニケーションとして成り立つこともあるのです。
コワルスキーのそんな性格を最初に見抜いていたのは、タオの姉・スーでした。
だからこそ、コワルスキーは初めから、スーと親交を深めることができたのでしょう。

タオは初め、コワルスキーの悪口を罵りだと感じていました(無理もありませんが)。
しかし、コワルスキーと付き合ううちに、その陰にある気持ちを知るようになります。
その上、コワルスキーと理容院の店主から「男らしい挨拶の言葉」を学び、自身で使うこともできるようになりました。

この過程は、コワルスキーとタオの関係性をわかりやすく表現しており、作品内でも素晴らしいシーンの連続と言うことができるでしょう。

タオとコワルスキーの関係性の変化。
これは、差別意識からコミュニケーションを拒絶していた状態から、偏見を上回るほど、お互いを深く知ったことによるものです。

差別意識や嫌悪感(嫌悪感からくる差別意識もあるでしょう)は、先に書いた通り、コミュニケーションを阻害するものです。
しかし、それが取り払われたとき、心の絆はより強いものとなるのかもしれません。

コワルスキーの本当の思いとは?

先に、コワルスキーが抱く強い差別意識について述べました。
次は、なぜコワルスキーがそんな差別意識を抱くようになったのかを考えましょう。

作品内には、コワルスキーが過去の話をするシーンがあります。
そこで触れられるのは、朝鮮戦争に従軍した際の話。
まだ少年と言っても良いくらいの年の兵士を、自らの手で殺してしまった経験です。

戦争で人を殺す。
それ自体が苦しい記憶であることは疑いようがありません。
しかし、それ以上にコワルスキーを苦しめていたのは、「上官の命令ではなく、自分の意思で」人を殺したという事実です。

上官に命令されて人を殺したのであれば、その責任を、辛い記憶を、ある程度上官に背負わせることができるでしょう。
しかし、コワルスキーは自分の意思で人を殺しました。
その記憶が、長い年月が経ってもなお彼を苦しめるのです。
「戦争だから仕方なかった」と考えることも無理ではないでしょう。
しかし、コワルスキーはそれをしません。
行為に及んだのは自分だ、という認識があるからです。

ここでコワルスキーが抱いているのは、罪悪感という苦い気持ち。
神父に懺悔しても足りないほどの罪悪感です。
それは、死を間近で見て死を感じた人にしか持てないほどの、強い気持ちです。

コワルスキーが一番強い差別意識を抱く人種を考えてみましょう。
それは、かつて彼が殺した人種と同じアジア人(作中ではモン族)です。
モン族に対し、コワルスキーはどうしようもなく頑なです。
その雰囲気は、同じ空気を吸うことすら嫌悪しているように思えます。

強い罪悪感を抱くことは、それそのものを遠ざけてしまうことにも繋がります。
かつての自分の罪を直視するのは、決して簡単なことではないからです。

つまり、コワルスキーが持つ強い差別意識は、彼の強い罪悪感が引き起こしたものだと考えることができるでしょう。
罪悪感が現在のコワルスキーを作り、その経緯があったからこそ、タオと心からの友人関係を築くことができたのでしょう。

もし、コワルスキーに戦争経験がなかったら?
全く違う物語になっていたかもしれません。

まとめ

コミュニケーションの邪魔をする差別意識。
それを取り払う行程は難しいものですが、その垣根を越えてお互いを知れたときは、とてつもなく爽やかな気持ちになるものです。

映画「グラン・トリノ」では、お互いを知り、お互いを好ましく思うに至る二人の心境の変化が細やかに描かれています。
それは「イーストウッド流」とでも言うべきものではありますが、彼のファンであろうとなかろうと、十分に感じ入ることができるでしょう。

また、イーストウッドが演じるコワルスキーの格好良さは相当なものです。
「偏屈爺」をどんどん好きになる、この感覚を、ぜひ皆さまにも体験して欲しいと思います。

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