映画「レインマン」
言葉とは便利なもの。
日常生活で、そして、初対面の人と打ち解けるために使われるからです。
しかし、会話以外のコミュニケーション方法も、ときには考える必要があります。
名作映画の一つに数えられる「レインマン」をご存じでしょうか。
この作品には、言葉によるコミュニケーションを苦手とする人物が主要キャラクターとして登場しており、そうした事実を考えるきっかけを与えてくれます。
この記事では、「コミュニケーション」に着目して、映画「レインマン」をご紹介していきます。
映画「レインマン」の概要
「レインマン」は、1988年に公開されたアメリカ映画です。
兄弟の絆とその交流を描くロードムービーであり、公開から時間が経った現在もなお、高い評価を受けています。
監督は「ダイナー」や「わが心のボルチモア」などで知られるバリー・レヴィンソン。
主演はダスティン・ホフマンとトム・クルーズの名俳優の2代巨頭。
特にダスティン・ホフマンの演技は目を見張るもので、難しい役どころを見事に演じ切っています。
映画「レインマン」のあらすじ
高級車のディーラーを経営するチャーリーは、仕事がうまくいかず、破産の危機にありました。
そんな彼の元に、長年絶縁状態にあった父が亡くなったとの知らせが入ります。
チャーリーは恋人のスザンナを伴い、故郷に戻ることになりました。
故郷に戻った彼を待ち受けていたのは、「車とバラ以外の財産を相続できない」という事実でした。
多額の現金と家は、誰かもわからない人物に残すという遺言があったのです。
チャーリーは、父の財産が誰に遺されたのかを探ろうとします。
彼が行きついたのは、障害を持つ人々が暮らす病院。
その病院には、チャーリーが存在すら知らなかった彼の兄・レイモンドも住んでいました。
そしてレイモンドこそ、チャーリーの父の多額の遺産を相続した張本人でした。
レイモンドは重度の自閉症でありながら、知能そのものは高く、数字に強い性質を持つサヴァン症候群を患っていました。
しかし、金銭の概念はありません。
チャーリーはそんな兄から、財産の半分を取ろうと考えます。
チャーリーはレイモンドと散歩に行くふりをして、彼を病院から連れ出しました。
そしてそのまま、ロスに向かって出発したのです。
重度の障害を持つ兄と、お金が欲しい弟。二人の長い旅が始まります。
コミュニケーションとは何かを考える

「レインマン」を見ていると、思わず考え込んでしまうことがあります。
それは、「コミュニケーション」という概念について。
コミュニケーションとは、一体何なのでしょう。
私たちは、普段言葉を使って自分の思いや考えを相手に伝えています。
それが口頭であれ、文章であれ、共通の言葉を使っていることに違いはありません。
その反面、使う言葉が違えば、意思の疎通も難しくなってしまいます。
これを考えていくと、「言葉」の大切さがよくわかります。
映画「レインマン」に登場するレイモンドは、重度の自閉症でありながら(今回は作品の設定に沿い、細かな自閉症の分類には触れないでおきます)数字に特化した高い知能を持つ人物です。
しかし、言葉を使って思いを伝えることは困難であり、苦手としています。
思いを言語化する。
これは、私たちが特に意識せずとも行える日常的な行為です。
得意不得意はあるにせよ、「全くできない」というのは考えにくいのではないでしょうか。
赤ちゃんや言葉を話し出した時点の幼児を考えてみましょう。
赤ちゃんは言葉を話すことができません。
熱い・寒い・お腹が減った……。
赤ちゃんにとって、こうした基本的な感情は命に直結します。
それでも話すことはできないため、泣き声で世話をしてくれる人に伝えるのです。
では、少し会話ができるようになった頃の幼児はどうでしょうか。
彼らは少しばかり言葉をつかえるようになったものの、まだまだ未熟です。
自分の感情をうまく言葉にすることができず、癇癪を起こすこともよくあります。
また、大人の言うこともうまく伝わらず、指示が通らないこともあるはずです。
私たちも、そんな状態だったときがあったはずです。
しかし、それを覚えている人は、そう多くないでしょう。
そして、そんな彼らの頭の中を覗くことはできません。
それでもわずかばかり、想像できることがあります。
それは、彼らが何も考えていない訳ではなく(生まれたての赤ちゃんは違うかもしれませんが)、ただただ曖昧模糊として、それを表現する手段もなく、もやもやとしているのでしょう。
これは、作中のレイモンドの状態と似ています。
彼は言葉そのものを話すことができますが、意思疎通のためのものではありません。
難しい言葉の意味を理解することはできず、数字問題以外の質問に、的確に答えることもできません。
そのため、質問が矛盾している(ように感じて)訳が分からなくなると、パニックに陥ってしまいます。
小説は読みますが、丸暗記しているだけで物語を楽しんでいるわけでもありません。
レイモンドにとって、言葉は記号かつ呪文です。
それ以下でもそれ以上でもなく、「ただそこにある」ものなのです。
ここで、この項の最初に戻ります。
「コミュニケーション」とは何なのか。
それは、「自分の思いや考えを伝えること」と「相手の考えや思いを知ること」そのものを指します。
コミュニケーションの道具は、言葉だけとは限りません。
身振り手振りや、お互いの体の触れ合いも、コミュニケーションを取るための道具といえるでしょう。
しかし、レイモンドのように、それすら叶いにくい状態があることも確かです。
だからこそ、レイモンドとチャーリーの交流は感動的なのです。
私たちが普段行っている「コミュニケーション」という行為。
これは意外と、高度なテクニックなのかもしれません。
「心が通じる」ということ

今作「レインマン」の終盤、チャーリーの額にレイモンドが自身の額をコツンとくっつけるシーンがあります。
これは、なんとも心温まるシーンであり、お互いが「愛情のようなもの」を抱いていることをそれとなく明示してくれています。
ここで「愛情のようなもの」と表現した理由。
それは、レイモンドの特異性にあります。
チャーリーは確かに、レイモンドに愛情を抱きました。
過去の記憶を振り返り、自分に歌を歌ってくれた人物がレイモンドであることを知り、兄弟としての、肉親に対する愛情が生まれたのです。
しかし、レイモンドは少し違います。
自身の抱く気持ちを「愛情」だと認識することができないからです。
人の気持ちとは自然に生まれるものです。
しかし、その気持ちを表す言葉を知らなければ、一体何を感じているのか認識できないままです。
言葉によって自分の気持ちに名前を付けるということ。
これは、意外と重要なのです。
それでもレイモンドは、チャーリーに何かを感じました。
それは心地の良いものであり、また彼に会いたいと思わせるものでした。
勿論、レイモンドは言葉でわかりやすくこの気持ちを伝えることができないため、もう少し湾曲な表現をすることになります。
「Tマートの服なんてくそだ」
こうした言葉がレイモンドから出る。映画を見た人であれば想像できる、微笑ましいシーンです。
誰かと「心が通じた」という経験。
この経験は素晴らしいものです。
そして、「心が通じる」というものは、愛情を抱いたり抱かれたりすることよりも難しいものです。
長年一緒にいたとしても、心が通じない人もいるのですから。
先にも書いた通り、レイモンドは愛情を「愛情」だと認識できないでしょう。
しかし、チャーリーとレイモンドは、確かに心を通わせることができました。
その証拠が、額を合わせることであり、チャーリーに会えるまでの日数を「間違いなく、細かく」数えるということなのです。
チャーリーとレイモンドのように、言葉でのコミュニケーションが難しい場合というのも、ままあるでしょう。
しかし、言葉が通じなくても心が通じることが確かにあります。
「レインマン」は、そんな忘れがちな事実を教えてくれる映画なのです。
まとめ
ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ。
名俳優の二人が共演した映画「レインマン」を、コミュニケーションという観点に注目してご紹介してきました。
この映画は有名なため、見たことのある人が多いかもしれません。
しかし、一度見たことのある人にこそ、もう一度見て欲しいとも思います。
例えば、一度目はダスティン・ホフマンの演技に目を取られていたものが、二度目は広い目線で鑑賞することができるようになるからです。
今作は、作品の全体像を俯瞰で見ることによって、鑑賞後の感想が変わる作品です。
そして、そのお供として、この記事を役立てていただければ幸いです。